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妄想

若い女性の妄想に触発されて以前からあちこちに書き留めていた妄想を整理してみようと思った。

いつかドレミとやってみたいこと、いつになるか分からないけど妄想していること、もう実際にやったこと、いろいろ。

整理していることをドレミに伝えると、ドレミも妄想はいくらでもできるとのこと。

そしたら、ブログにアップするから、それを読んで触発されたら、ドレミの妄想をコメントしてみるように言った。

歌を詠んで歌で返す返歌じゃないけど、大人の歌会。妄想のキャッチボール(笑)

うまくいくか?!

※これまでにドレミと一緒に具現化したのは●です。妄想があまりにも多すぎて整理しきれませんでした(笑)
○エロ小説読書会:エロ小説をみんなで読書してあらすじを順番に説明。その後、前で一人で朗読しながらオナ。それを見ながら男が発射
○NPNB女性と歩く山辺の道:途中にある万葉歌碑で恋の歌を解説しながらプチ置換
○置換バス発射オーライ!:バス停を予め決めてそのルートを周回する置換専用バスを運行
○キス輪姦:都会の物陰に連れ込まれて次々にキスをされ続ける。
○ワンナイトスタンド:クラブを決めて目印を付けて踊る。見つけた男がナンパしてそのままトイレに連れ込んでやってしまう。
○男性ばかりの温泉宴会でセクハラ三昧:消防団のような男性ばかりの温泉旅行の宴会で酒の酌をさせながらセクハラを受ける
○しゃがんで電話露出:電話がかかって書類を出すためにしゃがんで電話。そのまま長時間電話。服装は、超ミニにTフロントショーツ
○襲われる寝台車の恐怖と快感:乗車する電車と座席を告知。いつ誰が襲ってくるか分からないなかで、起こるかもしれないことを想像して濡らす
○オークション:磔にされた状態で大勢の前に出される。司会者が状態を確認すると称して服を脱がせいたずらして反応を見せる。その上で競り。
●セクシー美容室:頭を洗ってもらうときに頭を胸にこすりつけたりできるセクハラOKの美容室
●白透けパン視犯:白い薄めの生地のパンツに原色系Tバックを履いて町中を歩く。居場所をレスして見つけた人は視犯。
●大人の水鉄砲:戦いの場のヒントをレスして見つけてもらって、白TシャツにNBの標的を狙ってもらう。
●衆人環視の中でイク女:ショッピングセンターとかで半円形の階段でイベント会場と兼用しているような場所でイクところを見てもらう
●セクシー影絵:音楽に合わせてシルエットで脱いでいくところを鑑賞
●視力2.0になる床:床が鏡のようになっているところに佇ませ、順番に覗く
●女体盛り:板前さんに盛りつけてもらってセクハラしながらみんなで食べる
●ヌードデッサン大会:絵画好きのエロ有志に集まってもらって、いろいろなポーズをさせながら描いてもらう
●前スリット自転車:前スリットタイトスカートで自転車に乗り、町中を走る。
○万引き検挙:スーパーから出てきたところを私服警備員が声をかけ警備員室でセクハラ
○公園放置:目隠し手錠で公園の木につなぐ。見つけた男が無言で犯す。
○奴隷品評会:複数の主が奴隷を出品。奴隷は縄や鎖で繋がれている。評価者は、出品物を触ったりして評価していく。
○風俗店面接:風俗で働いたことのない女の子が何も知らないことを良いことに面接する男が面接でいたずら。
○高速バス置換:動き出したら長時間止まらない高速バスでゆっくり時間をかけてトロトロになるまで置換される
○ワインコインお口処理器:木製の手枷首枷をした状態テーブル天板に固定。横にはワンコインお口処理器の看板を設置して町中に放置。
○集団置換:すし詰めの満員電車で周囲を囲むようにして陵虐。
○公衆便所バッジプレイ:公衆便所バッジを着けて町中を歩く。声をかけた男にはさせる。
○透明人間で見たい放題:男の長年の願望を実現!
○肉棒de海戦ゲーム:障子の向こうのどの格子に口を開けて待ってるかを予想してカッチカチにして突き破る
○女体がキャンバス:身体をキャンバスにボディーペインティング

ビエンナーレ001 のコピー

最高裁判決と国民審査

いわゆる君が代訴訟の最高裁判決が出た。その内容に頭の中で多くの疑問符が浮かぶが、最終審の判決であるということを受け止めたい。

しかしながら、我々国民は、そのような判決を下した最高裁判事を審査する権利を持っている。

私は、私自身の良心及び信条に基づきこれら裁判官を次の国民審査の際、しっかりと審査させていただく。

「普段先生はルールを守れと言っているのに、先生はルールを守らなくていいのですか?」という生徒からの根元的かつ素朴な疑問に下記裁判官はどのように答えるつもりなのか。

もちろん職務命令であっても、それが明らかに違法なものであれば従う必要はない。しかしながら、法的裏付けを持った適法な職務命令である。

そして、最高裁という最終審であれば、もっと法を大局的に見て判断すべきだろう。倫理や道徳、マナーは、ある意味法よりも上位の社会規範といえる(以前のエントリー参照)。国際常識、国際的マナーにおいて、国旗国歌の尊重は、普遍的なものであり、宮川光治裁判官が教育公務員の特殊性を指摘するのであれば、同裁判官がいう消極的不作為にすぎない不起立行為が及ぼす教育的影響の特殊性・重要性も併せて斟酌しなければ不充分という誹りを免れないと考える。

ここに、長文になってしまうが、同裁判官の意見を記載する。


事件番号 平成23(行ツ)263
事件名 懲戒処分取消等請求事件
裁判年月日 平成24年01月16日
法廷名 最高裁判所第一小法廷
裁判種別 判決

1 公立の高等学校又は養護学校の教職員らが卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立して斉唱すること又は国歌のピアノ伴奏を行うことを命ずる旨の各校長の職務命令に従わなかったことを理由とする戒告処分が,裁量権の範囲を超え又はこれを濫用するものではないとして違法とはいえないとされた事例
2 公立養護学校の教職員が卒業式において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立して斉唱することを命ずる旨の校長の職務命令に従わなかったことを理由とする減給処分が,裁量権の範囲を超えるものとして違法とされた事例


裁判官宮川光治の反対意見は,次のとおりである。
多数意見は,本件職務命令は憲法19条(思想及び良心の自由)に違反せず,また,第1審原告X4を除くその余の第1審原告らに対し戒告処分をした都教委の判断は懲戒権者としての裁量権の範囲にあるとするが,私は,そのいずれについても同意できない。なお,第1審原告X4に対する減給処分を裁量権の範囲を超えるものとした結論には同意できるが,理由を異にする。

第1 本件職務命令の憲法適合性について
1 原審は,第1審原告らがそれぞれ所属校の各校長から受けた本件職務命令に従わなかったのは,「君が代」や「日の丸」が過去の我が国において果たした役割に関わる第1審原告らの歴史観ないし世界観及び教育上の信念に基づくものであるという事実を,適法に確定している。そのように真摯なものである場合は,その行為は第1審原告らの思想及び良心の核心の表出であるか少なくともこれと密接に関連しているとみることができる。したがって,その行為は第1審原告らの精神的自由に関わるものとして,憲法上保護されなければならない。第1審原告らとの関係では,本件職務命令はいわゆる厳格な基準による憲法審査の対象となり,その結果,憲法19条に違反する可能性がある。このことは,多数意見が引用する最高裁平成23年6月6日第一小法廷判決における私の反対意見で述べたとおりである。
なお,そこでは,国旗及び国歌に関する法律と学習指導要領が教職員に起立斉唱行為等を職務命令として強制することの根拠となるものではないこと,本件通達は式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図で発せられたものではなく,その意図は,前記歴史観等を有する教職員を念頭に置き,その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に,不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにあるとみることができ,職務命令はこうした本件通達に基づいている旨を指摘した。本件では,さらに多数意見が指摘する「地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性」について,私の意見を付加しておくこととする。

2 第1審原告らは,地方公務員ではあるが,教育公務員であり,一般行政とは異なり,教育の目標に照らし,特別の自由が保障されている。すなわち,教育は,その目的を実現するため,学問の自由を尊重しつつ,幅広い知識と教養を身に付けること,真理を求める態度を養うこと,個人の価値を尊重して,その能力を伸ばし,創造性を培い,自主及び自律の精神を養うこと等の目標を達成するよう行われるものであり(教育基本法2条),教育をつかさどる教員には,こうした目標を達成するために,教育の専門性を懸けた責任があるとともに,教育の自由が保障されているというべきである。もっとも,普通教育においては完全な教育の自由を認めることはできないが,公権力によって特別の意見のみを教授することを強制されることがあってはならないのであり,他方,教授の具体的内容及び方法についてある程度自由な裁量が認められることについては自明のことであると思われる(最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁参照)。上記のような目標を有する教育に携わる教員には,幅広い知識と教養,真理を求め,個人の価値を尊重する姿勢,創造性を希求する自律的精神の持ち主であること等が求められるのであり,上記のような教育の目標を考慮すると,教員における精神の自由は,取り分けて尊重されなければならないと考える。個々の教員は,教科教育として生徒に対し国旗及び国歌について教育するという場合,教師としての専門的裁量の下で職務を適正に遂行しなければならない。したがって,「日の丸」や「君が代」の歴史や過去に果たした役割について,自由な創意と工夫により教授することができるが,その内容はできるだけ中立的に行うべきである。そして,式典において,教育の一環として,国旗掲揚,国歌斉唱が準備され,遂行される場合に,これを妨害する行為を行うことは許されない。しかし,そこまでであって,それ以上に生徒に対し直接に教育するという場を離れた場面においては,自らの思想及び良心の核心に反する行為を求められることはないというべきである。音楽専科の教員についても,同様である。このように,私は,第1審原告らは,地方公務員であっても,教育をつかさどる教員であるからこそ,一般行政に携わる者とは異なって,自由が保障されなければならない側面があると考えるのである。

3 以上のとおり,第1審原告らの上告理由のうち本件職務命令が憲法19条違反をいう部分は理由がある。

第2 懲戒処分の裁量審査について
1 多数意見は,本件職務命令の違反を理由として,過去に同種の行為による懲戒処分等の処分歴のない第1審原告らに対してなされた戒告処分(以下「本件戒告処分」という。)は,懲戒権者としての裁量権の範囲を超え又はこれを濫用したものとはいえないという。そこで,私も,本件職務命令の憲法適合性に関する判断を留保し,また,本件戒告処分自体も憲法19条に違反する可能性があるが,その判断を留保し,その上で,本件の懲戒処分に係る裁量審査に関し,私の反対意見を述べる。以下,2において考慮すべき諸事情のうち第1審原告らの行為の原因,動機及び行為の態様と法益の侵害の程度について述べ,3において本件では戒告処分は実質的にみると重い不利益処分であることを指摘し,4において他の非違行為に対する処分及び他地域の処分例と比較すると不公正であることを述べる。

第1審原告らの不起立行為等は,「日の丸」や「君が代」は軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであり平和主義や国民主権とは相容れないと考える歴史観ないし世界観,及び人権の尊重や自主的に思考することの大切さを強調する教育実践を続けてきた教育者としての教育上の信念に起因するものであり,その動機は真摯であり,いわゆる非行・非違行為とは次元を異にする。また,他の職務命令違反と比較しても,違法性は顕著に希薄である。第1審原告らが抱いている歴史観等は,ひとり第1審原告ら独自のものではなく,我が国社会において,人々の間に一定の広がりを有し,共感が存在している。また,原審も指摘しているが,憲法学などの学説及び日本弁護士連合会等の法律家団体においては,式典において「君が代」を起立して斉唱すること及びピアノ伴奏をすることを職務命令により強制することは憲法19条等に違反するという見解が大多数を占めていると思われる。確かに,この点に関して最高裁は異なる判断を示したが,こうした議論状況は一朝には変化しないであろう。
第1審原告らの不起立行為等は消極的不作為にすぎないのであって,式典を妨害する等の積極的行為を含まず,したがって,式典の円滑な遂行に物理的支障をいささかも生じさせていない。法益の侵害はほとんどない。

3 第1審原告らは,最初の不起立行為等で本件戒告処分を受けたのであるが,その処分が第1審原告らに与える不利益については過小評価されるべきではないと思われる。確かに,戒告処分は法の定める懲戒処分の中では最も軽いが,処分を受けると,履歴に残り,多数意見も認めるとおり勤勉手当は当該支給期間(半年間)において10%の割合で減額され,昇給が少なくとも3か月延伸される可能性があり,その延伸によりひいては,退職金や年金支給額への影響もあり得る。そして,東京都の教職員は定年退職後に再雇用を希望するとほぼ例外なく再雇用されているが,戒告処分を受けるとその機会を事実上失い,合格通知を受けていた者も合格は取り消されるのが通例であることがうかがわれる。都教委は,不起立行為等をした教職員に対し,おおむね1回目は戒告処分,2回目は1か月間月額給与10分の1を減ずる減給処分,3回目は6か月間月額給与10分の1を減ずる減給処分,4回目は停職1か月の停職処分等という基準で懲戒処分を行っていることがうかがわれる。毎年度2回以上の卒業式や入学式等の式典のたびに懲戒処分が累積加重されるのであるから,短期間で反復継続的に不利益が拡大していくのである。戒告処分がひとたびなされると,こうした累積処分が機械的にスタートする。
以上のとおり,実質的にみると,本件では,戒告処分は,相当に重い不利益処分であるというべきである。

4 教職員の主な非行に対する標準的な処分量定(東京都教育長決定)に列挙されている非行の大半は,刑事罰の対象となる行為や性的非行であり,量定上それらに関しても戒告処分にとどまる例が少なくないと思われる。原審は,体罰,交通事故,セクハラ,会計事故等の服務事故について都教委の行った処分等の実績をみると,平成16年から18年度において,懲戒処分を受けた者が205人(うち戒告が74人)であるのに対し,文書訓告又は口頭注意といった事実上の措置を受けた者が397人,指導等を受けた者が279人となっており,服務事故(非違行為)と認められた者のうち懲戒処分を受けたのは4分の1にも満たないとし,これによれば,戒告処分であっても,一般的には,非違行為の中でもかなり情状の悪い場合にのみ行われるものということができるとしている。
さらに,不起立行為等に関する懲戒処分の状況を全国的にみると,懲戒処分まで行っている地域は少なく,例えば神奈川県や千葉県では,不起立行為等があっても,またそれが繰り返されていても,懲戒処分はされていないことがうかがわれる。このように比較すると,本件戒告処分は過剰に過ぎ,比例原則に反するというべきである。

5 以上を総合すると,多数意見がいう不起立行為等の性質,態様,影響を前提としても,不起立行為等という職務命令違反行為に対しては,口頭又は文書による注意や訓告により責任を問い戒めることが適切であり,これらにとどめることなくたとえ戒告処分であっても懲戒処分を科すことは,重きに過ぎ,社会通念上著しく妥当性を欠き,裁量権の範囲を逸脱し,又はこれを濫用するものであって,是認することはできない。この点に関する原審の判断は相当である。第1審原告X4については,多数意見は減給処分の取消請求を認容した原審の判断を是認することができるとしており,結論において同じとなるが,上記のとおり,私の意見は理由を異にする。なお,多数意見は,過去の処分歴に係る非違行為がその内容や頻度等において規律や秩序を害する程度の相応に大きいものであるなどの場合は,減給処分が裁量の範囲にあるものとされる可能性を容認していると思われる。そうであるとすると,前述のとおり式典は毎年度2回以上あり,不起立行為等を理由とする戒告処分は短期間に累積されていくのであるから,ある段階では減給処分がなされる可能性がある。多数意見は,起立斉唱行為に係る職務命令は思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることを認めていることに鑑みると,ただ単に不起立行為等が累積したにすぎない場合に減給処分が裁量の範囲にあるものとされる可能性を容認することは,相当でないと思われる。


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メリークリスマス

私がアートに目覚めることになった原点。太陽の塔へ行ってきた。
クリスマスの特別企画として、プロジェクションマッピングによる映像が太陽の塔に投影されていた。
投影される土台としての太陽の塔自体に強烈なメッセージ性があるから投影される映像がものすごい迫力で迫ってくる。

この映像を作った作家さんは、きっと苦悩しただろうな。何せ太陽の塔に投影するのだから。でも、その分やりがいも無茶苦茶あっただろうな。

途中、太陽の塔が崩壊する映像があったりしたけれど、これも岡本太郎さんの作品だから許されるのだろう。生前の岡本太郎さんにその案を持ちかけたら、きっと「面白い!」って言ったんだろうな。

もうこの世にはいない岡本太郎さん。でも、そのスピリットとは永遠にコラボできる。
岡本太郎さん、ありがとう。そしてメリークリスマス。


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報い

東日本大地震が起こったとき、多くの消防団員が津波から町を守るために防潮門を閉じに海に向かって走った。

そして、多くの団員が犠牲になった。彼らは、普段自分の仕事をしていて、火事や災害が起こったときに活動する。常勤の消防士に比べ装備が整っていない。でも、地元密着の活動を広範に担っている。

地震が起こったとき、本当は家族を連れて山に避難したかっただろう。でも、消防団員としての使命を全うするために海に向かった。

253名という膨大な殉職者数だ。常勤の消防士の殉職者が27人ということを考えると、その多さが分かる。

通常、彼らが活動中に災害に見舞われたときは、補償基金から非常勤公務員として補償される。しかしながら、今回の大震災では、その死者数の多さから消防団員福祉共済の弔慰金が、資金不足のため制限される。

こんなことがあっていいのか。
みんなの命を守るために海に走り犠牲になった人とその遺族にそんな扱いで良いのか。

民主党は医療機関受診時に100円を上乗せして支払う受診時定額負担制度の導入を見送った。

それにより、必要となった費用は1300億円
一方、規定額を支払のに必要な費用は40億円

そんな100円の負担を見送るお金があるんだったら、彼らにしっかり補償すべきだろう。
国民はこの事実を知ったら、100円の負担を厭うだろうか。

スペイン政府は、福島原発で初期活動した人達にスペイン皇太子勲章を贈った。

外国の政府は、その勇気を称えたが、日本政府は、何かしたか?

お金が足りないんだったら、せめて、彼ら消防団員の勇気を称える処置を講じるべきだろう。

そんな国民を使い捨てにする国は国民から見限られるだろう。

声が大きい医師会票を失うことに汲々して、声の小さい253人を顧みることをしない政府。なにが「国民の生活が第一」だ。「政権維持が第一」ではないか。

民主党政権!よく考えて欲しい。


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政体

地勢と歴史を俯瞰してみたが、次は政治制度を俯瞰してみたい。

昨今の政治をみると、TPPや年金、防衛問題など今の日本が抱える喫緊の課題を先送りもしくは牛歩戦術かのごとくの議論に終始している。

果たして、民主制が国民に一番幸せをもたらす制度なのだろうか。
民主制を維持するためにかかる費用、ポピュリズム、ばらまき政策をみたとき、ふと疑問に思う。

政治決断にはスピードが不可欠だ。そして、長期戦略をもって政治にあたる必要がある。

しかし、あまりにも意見のバランスをとり中間案での妥協を繰り返し、首相が1年毎に交代するような状況では、果断や長期戦略政治を望むことができない。

国益を考えたとき果たしてこれで良いのだろうか。


政体としては、君主制と貴族制と民主制がある。
大きな国家で民主制をとるには、国民の意思を反映するための仕組み・システムが必要になる。このため、古くは、絶対君主制国家が多かった。しかし、専制政治などの問題が起こり、市民革命を経て民主制を採用する国が多くなった。

民主制を支えるのが国会。そして、その構成員が国会議員。
だが、国会議員は、その立場を得ることのみに執心し、国民に甘いことしかしていない。財務省が公開している租税収入の年次別推移で一番古いデータとそのときの歳出予算と直近のデータを比較してみると、歳出予算額/租税決算額は、昭和57年の1.63が平成21年では2.72になっている。つまり、税金は抑え、いっぱいいろんなこと国の予算で(借金して)しますよということ。こんな数字を見ると、壮大な与党による買収選挙のように思えてしまう。

そして、国会議員を選ぶ国民。
東日本大震災のがれきを東京都が受け入れて処理することに都民から2868件の抗議が寄せられた。石原慎太郎知事は「(放射線量などを)測って、なんでもないものを持ってくるんだから『黙れ』と言えばいい。放射線が出ていれば別だが、皆で協力して力があるところが手伝わなければしようがない。皆、自分のことばかり考えている。日本人がだめになった証拠だ」と述べた。
石原知事の発言を全面的に支持する。もうそれ以外の言葉を加えない。

そして、国民が判断のために得る情報。
記者クラブというカルテル組織に身を置きながら、オーソライズされた単一の情報源からの記事のみが報道され、チェック機能が働いていないマスメディアの情報では、国民は正常な判断ができない。「放射能つけちゃうぞ」という言葉を発していない大臣が辞めることになり、村木局長の冤罪事件は1社たりとも疑問を呈さず、古くは松本サリン事件で被害者を犯罪者として報道した。

民主制を支え、機能するための前提条件がことごとく崩壊していると言ってもいい。そりゃ、これではうまく回らないだろう。



民主制が一番いいと思っている人が多いと思うが、本当に民主制度が一番いい政体なのだろうか?敢えて口に出して言う。

世界には民主制をとらない国もある。ブータンもそのうちの一つだが、ブータンは国民の幸せ度は高い。2005年のブータンで初の国勢調査では、「あなたはいま、幸せですか?」という設問に対して、「すごく幸せ」が45.2%、「幸せ」が51.6%。あわせて96.8%が幸せと回答している。

また、江戸時代も民主主義ではなかったが、果たして当時のほかの国と比べて民衆は不幸せだっただろうか。学生時代に教えられた暗黒の江戸時代を全くは否定しないが、現代との比較でしか捉えていないと思う。当時の他国と比べて考えたとき、必ずしも不幸せだったとは思わない。

ウィンストン・チャーチル元英国首相は「実際のところ、民主政治は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた、他のあらゆる政治形態を除けば、だが」と言った。たぶん人類が生きてきたなかで、様々な試みを重ねていく中で、現時点では一番合理的な政体なんだろうけれども、民主制が絶対無二の素晴らしい制度でもない。

アリストテレスは、政体としての君主制と貴族制と民主制がそれぞれの堕落した形態として、僭主政、寡頭政、衆愚政をあげ、君主制が堕落すると、僭主政になり、その反動で貴族制が起こり、やがてそれが堕落すると、寡頭政となり、その反動として民主制が起こり、それが堕落すると、衆愚政となり、その反動として君主制が起るとして、歴史は、堕落と革命を繰り返すとの循環論を説いた。

このようにして見てみると、今後は、ネットという個人と個人が繋がることが可能となった社会基盤を取り入れた新たな形の君主制へ移行するのが、政体を俯瞰してみたとき流れではないだろうか。

ツイッターでソフトバンクの孫社長に要望をつぶやいて、孫社長が返信しているのをみる。トップとユーザーがこんなに直接に頻繁にやりとりができるなんてなんてツイッターがない時代では考えられなかった。
国会とは別に個々人の意見をネットで聞きながらも最終的には君主が決断し実行し責任をとる。こんな政体があり得るのではないだろうか。

そして、今後は、そういう政体を持つ国が、国益を守り、国民を幸せにするのではないだろうか。


人々01

今、改めて想う

前回は、地図を角度を変えて見てみたが、
今度は、歴史を俯瞰して自分なりに考えてみる。

東日本大震災直後、世界のメディアは、日本人の行動の美しさに驚いた。
このことは以前のエントリーでも書いた。

あのときの日本人の行動は、何に由来するのだろう。
私は、武士道の遺伝子だと思っている。

世界は、公を意識した自律的行動に純粋に驚いたのだと思うが、
一方で、消え去ったと思っていた武士道が残っているではないかという驚きが実は含まれていたのではないかと思っている。

特にアメリカ政府の中枢部は、驚愕しただろう。

アメリカは潜在的に日本に対する恐怖心があると思う。
だから戦後若干の左翼思想を入れながら自虐史観を植え込む超長期戦略で日本に相対してきたと思っている。

零戦を生んだ日本の航空機産業を破壊し、
武士道を源流とする道徳心を破壊し、
その超長期戦略は確実に進展していると思っていた。

しかしながら、武士道の遺伝子は少ないながらも残っていたのだ。
そう考えると、伝わってこないがアメリカの驚きは尋常ではないはず。
きっと、更なる超長期戦略を練っていることだろう。

普段は柔和だけれども、ひとたび事が起これば、命を賭して公に生きる。
程度と形に差はあれ、日本では連綿と続いているのだ。

このことがアメリカにとっては恐ろしくてたまらないはず。

幕末の堺事件での切腹や、太平洋戦争での特攻を知ったとき、とてつもなく戦慄しただろう。

世界では他にもイスラムの自爆テロがあるが、殉教者は天国で乙女に囲まれ、甘美な生活ができると信じられていることが要因だと言われている。

表面的には似ているが、行為の源泉が自己愛と他者愛とで全く異なる。

自分のためにではなく、家族や国のため、正義のために命を賭すのだ。
恐ろしすぎるだろう。


武士は、常に美しく行動しようとした。
美しく行動するためにはどうしたら良いか。
そのために、無になるべく心を磨いた。

物欲や名誉欲など全ての欲を捨て去り、更には人間にとって一番の恐怖である死でさえ、その恐怖を抑え込んでしまう精神力。

そんな気持で向かってこられたら恐ろしくてたまらないだろう。
そんな遺伝子を受け継いでたら恐ろしくてたまらないだろう。

今、改めて武士道を想う。

桜

地政

本は、上を上にして読まないといけないが、地図は、上を上にして読む必要はない。
地図をいろんな向きで見てみると、いろんなことが見えてくる。

久々に世界地図を眺めてみた。
視点を変えてみるというのがいかに大切かということを実感した。


アメリカからみたとき
アメリカ本土から西を上にして見てみる。
アメリカは、ロシアと中国という巨大な元現共産国家と太平洋を挟んで対峙している。東アジアでの有事を考えたとき、まさしく前線基地の位置に日本がある。
軍事的に近すぎず遠すぎない位置。守りながら攻めることができる位置。以前、中曽根元首相が、日本を不沈空母と言って、物議を醸したが、その分析は的を得ていると思う。

私は、アメリカによって日本は守られアメリカ依存の防衛だと日米同盟を片務契約的に捉えていたが、そう考えれば、そんなことはない。充分にアメリカに恩を着せていい。

東アジア有事の際、アメリカ領の最前線グアムから展開するのでは、遠すぎる。フィリピンの基地が無くなった今特に重要なはず。日本のために、アメリカ軍が日本にいるのではなく、アメリカのためにいるんでしょって。なのに駐留経費まで負担するなんて、お人好しにもほどがある。
アメリカからみたとき


中国からみたとき
以前のエントリーにも書いたが、南北を逆にして中国から日本を見てみる。
まるで、中国が外洋に出るのを防ぐかのごとくの列島配置。
そう考えると、沖縄の島々は違った形で見えてくる。沖縄に米軍が戦略的意味を見いだす理由がよくわかる。中国から外洋に出ようとしたとき、必ず沖縄の左右を通る必要がある。そして同時に、朝鮮半島と台湾両方に目配せできる位置。
排他的経済水域の問題を除外して純粋に軍事的に考えたとき、竹島よりも尖閣諸島のほうが重要性が高いはず。そういう意味で政府の対応が竹島に比して尖閣諸島にプライオリティをつけているのだろうか。ただ、そういう視点というのは伝わってこない。
中国からみたとき3


ロシアからみたとき
ロシアを軍事的地勢という点で考えたとき、不凍港と南下政策ははずせない。広大な土地を有しながら高緯度に位置しており、常に凍らない港を求め指向している。そう思って見てみるとロシアの不凍港はそれほど多くない。そして、それは他国に比べて極めて不利な状況にある。

不凍港は限られる。
北極海のムルマンスク:ロシア北方艦隊の拠点。北極圏に位置するが、北大西洋海流の影響で1年中凍らない。
バルト海のサンクトペテルブルクと飛地のカリーニングラード:ロシアバルチック艦隊の拠点。しかし、外洋に出るにはデンマークの狭い海峡を抜けないといけない。
黒海のセヴァストポリ(ウクライナ共和国)とノヴォロシースク:ロシア黒海艦隊の拠点。これもまた、トルコのボスポラス海峡、ダーダネルス海峡、ジブラルタル海峡と極めて狭い海峡を抜けないといけない。
太平洋のペトロバヴロフスクカムチャツキー:カムチャツカ半島の先端部で陸路鉄路が通っていないので軍港としての優位性は低い
日本海のウラジオストク:ロシア太平洋艦隊の拠点。厳密な意味での不凍港ではく冬期に流氷が押し寄せるが、鉄路が通っており軍港としての優位性は高い。
ロシア不凍港


そして、ウラジオストクから外洋を上にして見てみる。
見事に日本列島が外洋に出るのを邪魔している。
外洋に出ようと思えば、宗谷海峡か津軽海峡か対馬海峡を通るしかない。間宮海峡は凍結する。
それぞれの海峡はかなり狭い。領海の範囲を調べると12海里。
しかし、これら3海峡は、国内法で以前の3海里にとどめ、わざと海峡内に公海を作っている。
日本の領海等概念図(海上保安庁)
特定海域(海上保安庁)

ロシアからみたとき


調べていて、ムカムカしてきた。国際法上12海里を領海と設定できるのに敢えて日本政府はしていない。
公海と領海の違いは何か。それは、作戦行動中の軍艦が自由に航行できるかどうかどうか。(領海内は無害通航するならば他国の軍艦も航行可。でも潜水艦が無害通航しているといえるには、浮上して国旗を掲げないといけない。)そして不審な船を国内法で取り締まることができるかどうか。

ロシアに対して強烈に軍事的に優位に立てるカードを日本政府はみすみす手放している。
それは、非核三原則があるため。アメリカの核を搭載した軍艦が領海を通過することのないように3海里でいいですと言っているのだ。国際社会はパワーゲームだということを本当に理解しているのだろうか。佐世保や横須賀に寄港している米空母が核を搭載しているというのは、もう公然の秘密とも言える状態なのに金科玉条のごとく非核三原則を守るために、領海をわざと縮めて核を通過させていませんと言っているのだ。国益を考えたとき、この選択はないだろう。
元外務次官証言(共同通信)

もし、作戦行動中のアメリカ軍艦がこれら3海峡を自由に通過する必要があるのであれば、同盟国としてアメリカに対してそれを認めればすむはず。

核を搭載しているアメリカ軍艦が、これら日本近傍の3海峡を通過する事実は、これら海峡部分の領海を3海里にしようが12海里にしようが変わらない。海峡の領海は3海里にしてますから、核を持ち込ませていませんというのは、詭弁でしかない。

ムカムカして横道にそれて筆が走ってしまった。話を元に戻す。
ロシアの立場にたって考えてみる。日本政府は自ら領海を国内法で放棄している。もし、日本が対ロシア強硬政権となったとき、国際法で認められた12海里領海を国内法で規定すれば、作戦行動中のロシア軍艦が外洋に出るには、津軽および対馬海峡は通過できず、宗谷海峡の北半分を通過するしかない。でも、まだその先に千島列島がある。冬は流氷が押し寄せる。当然、氷が薄く少ない南を通過したい。そこには何があるか。日本固有の領土、北方領土。もし、北方領土を日本に返還したらどうなるか。上記のように日本が国内法を改正したら、ウラジオストクのロシア太平洋艦隊は、冬期外洋に一歩も出れなくなる可能性だって生じる訳だ。そう考えたら、ロシアが返還要求に頑なな態度をとり続ける理由がよくわかる。北方領土の水産資源が豊富だから手放さないのではない。


地図を真剣にしっかり見て考えると、いろんなことが見えてくる気がする。


想定外と言霊

東日本大地震の際、菅前総理は、想定外の地震だったと言った。
そして、また、想定外の出来事として、原発の冷却装置が稼働せず、原子炉がメルトダウンした。

安全神話が崩壊したと言われたが、
原子炉は、100%安全でないといけなかったのだ。
99.9%の安全では許されなかったのだ。

それがために、思考停止してしまったのではないか。
それがために、99.9%の安全を99.99%に引き上げる努力をしなかったのではないか。

日本には、「縁起でもない」という言葉がある。

言葉として発したことが現実のものになるという考え方。
仲間たちで旅行に行くとき、誰かが「雨になるで~」とか言って、実際に雨が降ってしまうと、お前が縁起でもないこと言うからだと袋叩きにあってしまうが、その人が言ったから雨が降るのではなく、上昇気流で雲が発生し雨が降る。でも、言葉に力があると考えるのが、言霊。

近年の日本は、この言霊に支配されている。

原子炉は100%安全だと言わないと、100%安全ではないのだ。
そして、100%安全だと言えば、100%安全なのだ。

100%原子炉は安全なのだから、事故はもちろん想定外になる。

平和憲法を持っていれば、平和になると考え、
鉢呂大臣が死の町のようだと言えば、死の町のようになると考える。

そろそろ、言霊の呪縛から解き放たれないといけない。

言霊と想定外

栄枯盛衰

誕生から成長、成熟、死と人にライフサイクルがあるように
産業にも存在すると、高校時代学んだ。

どんな産業にも人生と同じように、誕生、成長期、成熟期、衰退期があると。

かつて、繊維産業や鉄鋼業は、栄華を極めた。しかし、今はその影もない。
デパートなどの流通業、店頭販売の旅行代理店なども厳しい局面になっていくだろう。
一方、宅配業やIT産業は、ますます成長していくのだろう。

もう一つ衰退の必然を感じる産業がある。
それは、マスメディア。

Sengoku38や東日本大震災のときのツィッターを見たとき、マスメディアは終わったと感じた。

個人個人が動画も撮影できるカメラ付き携帯を持ち、ネットに繋がっている時代、よく考えれば、既存の路線でマスメディアが進むのであれば、衰退は必然だろう。

産業界では、B to C(Business to Consumer)と呼ばれる企業と一般消費者の取り引きや、C to Cと呼ばれる一般消費者(Consumer)間で行われる取り引きが盛んだ。

ニュースの世界でも、C to C へシフトしてきていると考えればいい。

先週末、変態仲間が20人集まり、泊まりで海オフ会を開いた。そして、おみやげにふんどしを持って行こうと考えた。ネットで検索していると、なんとその製造所は、近所!通販で買うより直接買いにいったほうが速いと思い、連絡を取ると、気のいいおじさんが、「いつでも来てくださいね~」と言ってくれた。

行ってみると、そこは本当に質素な小さな工場。汗だくになりながら一人で作業中の手を止めて応対してくれた。話をしていると、「問屋を相手に商売しててもあきませんけど、ネットだと結構買ってくれる人がいて、なんとかやってます。」と汗を拭いながら話をしてくれた。

おじさんは、持っている縫製技術を生かしB to Cで活路を見いだした。


マスメディアもおじさんと同じように進む方向を変えないと衰退の道をたどるだろう。



一方、改めて、メディア。取り巻く環境は、衰退産業への足音が忍び寄っているにも関わらず、どんどん質が落ちていっている。

鉢呂大臣辞任の原因となった発言の前後の記者とのやりとりも報道せず、あの一文だけをあげへつらい、言論人であるも関わらず言霊にとらわれた報道しかしていない。

また、電車内で寝ていた女性の上半身を撮影して警察に逮捕された男性の事件を実名で報道したメディアがある。どのような理由で実名報道するのか。そもそも、逮捕自体が正当なのかが疑わしい。日々業務で撮影し、肖像権や迷惑防止条例違反にならない撮影の範囲について一番詳しいであろうマスメディア。この逮捕に問題意識を持たないというのはどういうことだろう。

少し前になるがネットを使ってカンニングをした学生を執拗に報道した。あまたいるカンニング実行者をメディアは同じように報道したのか?

マスメディアは、通信社になってしまったと誰かがテレビで言っていたが、まさにそのとおり。

小売業に衰退産業の足音が忍び寄るなか、実家の近くの八百屋のおじさんは、今も頑張っている。
それは、そのお店で売っているものは、必ず美味しいから。
美味しいものをプロとして選別しているから。


マスメディアもおじさんと同じように選別の目をつけないと衰退の道をころげ落ちるだろう。


海会

自然との対峙

東日本大震災、そして今回の紀伊半島の災害といい自然の恐ろしさを見せつけられた。

過去の津波被害を教訓に、高さ10メートル、総延長約2.5キロの長大な防潮堤が整備された岩手県宮古市田老地区。
過去の水害経験をふまえ、高さ9.4メートルの輪中堤が築かれた三重県紀宝町。
いずれも大きな被害となった。

人間が、過去の経験を踏まえ、想定しようが、自然はお構いなしに圧倒的な力でそれを超えてしまう。

力に力、高さに高さで立ち向かうのは限界ではないかと思う。
自然を克服できると考えるのは、人間の思い上がりなんだと思う。

小学生の教材用に司馬遼太郎氏が書いた遺言ともいえる作品「二十一世紀を生きる君たちへ」から引用したい。

 昔も今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。
 自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。
 さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。
 人間は───繰り返すようだが───自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
 この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
 ───人間こそ、いちばんえらい存在だ。
という、思い上がった考えが頭をもたげた。20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といってもいい。

 同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。
 このことは、古代の賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。
 20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。
 おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、21世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。

「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」
と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。
 この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。
 この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。
 そうなれば、21世紀の人間はよりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬しあうようになるのにちがいない。
そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。


ここにもう一つ興味深い記事がある。
東日本大震災の津波が江戸時代の街道と宿場町の手前で止まっていたというのだ。街道は過去の津波の経験をもとに浸水域を避けて整備された可能性があるという見解があり、解説の大学教授は、「先人は災害の歴史に極めて謙虚だった」と語っている。
http://ruri.crara.cc/archives/6344/

築くべきは、高い堤防ではなく、ひとりひとりの心の堤防なのではないかと思う。

防潮門
プロフィール

美空

Author:美空
エロで変態だけど幕末好き。写真にハマり、アートや政治にも関心がある硬軟混ざった48歳です。
普段は、パートナーのドレミと関西を中心に活動しています。

堅い話もありますが、基本エロブログですので、18歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。

たまにツィートしています。



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