FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

3年目

東日本大震災から3年を迎える。

大切な家族・ふるさとを失った人のことを想うといたたまれない気持になる。

震災のことを振り返り、2年少し前、ライカラのために作った映像をアップしたい。


)
スポンサーサイト
[PR]

デリヘルもソープもイメクラも気に入った子がきっと見つかる
超大型リニューアル中の大好評風俗情報サイト!

永遠の0

映画「永遠の0」をドレミと一緒に観てきた。もうずっと泣きっぱなし。後半は、押し寄せる嗚咽の波に逆らうことができなかった。

人それぞれ感じ方があるとは思うけれど、この映画のレビューを見ていると酷評されていることがあるので、普段レビューとかは書かないけれど、原作者、監督、出演者及びこの映画の製作に関わった全ての方に感謝の気持ちを込めて書いてみた。

平成26年1月5日午前0時27分ヤフー映画に投稿


特攻隊員と現代人の気持ちを結ぶ作品

私は、戦後の日本教育を受け、健太郎(三浦春馬さん)の友達と同様、あの歳頃のとき特攻と自爆テロの違いを分かっていませんでした。そして、祖父が二人とも戦死しており、自分自身とオーバーラップして観ていました。

映画を観る前に原作を読み、知覧へ行きました。そこで観た特攻隊員の写真、直筆の手紙の数々が思い出されました。

映画中の描写であり得ないのがあるというようなレビューがありますが、私はそれは枝葉だと思っています。

ストーリーはフィクションだけれど、それほど遠くない時代、自分達の祖父母の時代に特攻があったという事実。そして、そこには特攻や戦地で散っていった若者一人ひとりに想いや家族がその数だけあったという事実。そのこと想うと涙が止めどもなく溢れてきました。

以前、「きけわだつみのこえ」という戦没学生の手記を集めた本を買おうと思って本屋に行き、買う前に少し立ち読みして1通目の手紙で泣いてしまったことがあります。
久保恵男さん(特攻訓練中殉死、25歳)の手紙でした。

そこには、「ともかく日本の国は私たちがきっと護りぬきます。ただ、なによりも案ずるのは、私たちが護ったこの国が次の時代にいかなる生成をし、発展をするかということです。戦争直後の疲弊や変調よりももっと先の文化の問題が気になります。」「私の個体もこの大きな歴史の山の頂に燃焼する。私はそれを快く見つめることができます。ただ、私たちは自分たちの思想や仕事を受けついでくれるべき人間をあとに遺したい。そして私のなしえなかった生活と理想を完成させてください。そのころにはすでに戦争も終わって日本の国は文化の上で苦しまねばならぬ時代だろうと思いますから。」(手紙の一部)と書かれていました。こんな想いでおられたことを知り衝撃を受けました。

この映画は、先の大戦で国を護ろうとして散った若者達の想いを届けるものだと思います。自分の命よりも大切なものがあるということ。護りたかったものがある、遺したかったものがあるということ。そのような想いの塊の上に、今の世の中があるという強烈なメッセージだと思います。

現代の価値観で考えると理解不能な特攻。しかし、それを実行した若者たちは現代と同じかそれ以上の人間愛・家族愛を持つ若者たちだったということが伝わります。

とかく現代の物差しで当時を捉え、命を粗末にするあり得ない時代だと思ってしまいがちですが、その時代に生きていた人たちは、決して命を粗末にした訳ではなく、現代に生きる我々と同じ考え方だったということが分かり、たまらない気持になりました。

この映画は、特攻隊員と現代に生きる人たちの気持ちを結びつける作品だと思います。


zero001.jpg

当事者意識

最近、先のエントリーで書いたようなことを知り合いに話をすることがある。
そうすると、決まって返ってくる言葉が、「軍部が独走したんですよね」。

ひどく当事者意識のない言葉だと思う。
40歳代後半の者にとって自分たちの祖父母の世代が関与した先の大戦。

自分たちは蚊帳の外において、一部軍部を悪者にして、一般市民は悪いことはしていませんと言いたいようだ。

しかし、果たしてそうだろうか。日露戦争は、世論に後押しされて開戦した。
その証拠に、日露戦争終結に伴う賠償内容に不満を持った民衆が、満足のいく賠償を得られないのであればもう一度戦争をしろと日比谷焼き討ち事件という暴動を起こしている。

日中戦争が始まったのが1937年。日露戦争が終わったのが1905年。間に第一次世界大戦をはさみ、32年。

日中戦争開始までの期間に民衆が急に反戦的になったとみるより、日比谷焼き討ち事件の空気感が、第一次世界大戦でも勝者側の連合国の一員となった要素も加わり継続しているとみたほうがいい。

一人の独裁者によってコントロールされていたドイツと違って、個々の現場レベルの国民の意志が強固な日本というとても厄介な国の占領政策を考えたとき、天皇制を温存し、一部の国民を悪者に仕立てるのが得策とアメリカは考えたのだろう。

民衆を分断して統治するというのは為政者が考える常套手段である。

A級戦犯とされた人たちは、連合国にそのように言われるだけでなく、日本国民にもそのように呼ばわれてしまっているのだ。



今日8月6日は、広島に原爆が落とされた日。広島の原爆死没者慰霊碑には、「過ちは 繰返しませぬから」と書かれている。

1952年に広島を訪れた極東国際軍事裁判のパール判事は、碑文を見て、「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と述べた。

その後、この碑文の文章の主語は、「人類」であるという見解が出された。

その見解は、原爆の被害者でありながら、同じ人類としてもう過ちを繰り返さないと宣言する苛烈ともいえる当事者意識に基づくもの。

しかしながら、そのように解する理想主義は、軍部が独走したのだという全く当事者意識のない主張に至ることに強烈な違和感を覚える。

過ちは 繰返しませんといいながら、戦争は軍部がしたことですと言っているのだから。

IMG_4470.jpg

最高裁判決と国民審査

いわゆる君が代訴訟の最高裁判決が出た。その内容に頭の中で多くの疑問符が浮かぶが、最終審の判決であるということを受け止めたい。

しかしながら、我々国民は、そのような判決を下した最高裁判事を審査する権利を持っている。

私は、私自身の良心及び信条に基づきこれら裁判官を次の国民審査の際、しっかりと審査させていただく。

「普段先生はルールを守れと言っているのに、先生はルールを守らなくていいのですか?」という生徒からの根元的かつ素朴な疑問に下記裁判官はどのように答えるつもりなのか。

もちろん職務命令であっても、それが明らかに違法なものであれば従う必要はない。しかしながら、法的裏付けを持った適法な職務命令である。

そして、最高裁という最終審であれば、もっと法を大局的に見て判断すべきだろう。倫理や道徳、マナーは、ある意味法よりも上位の社会規範といえる(以前のエントリー参照)。国際常識、国際的マナーにおいて、国旗国歌の尊重は、普遍的なものであり、宮川光治裁判官が教育公務員の特殊性を指摘するのであれば、同裁判官がいう消極的不作為にすぎない不起立行為が及ぼす教育的影響の特殊性・重要性も併せて斟酌しなければ不充分という誹りを免れないと考える。

ここに、長文になってしまうが、同裁判官の意見を記載する。


事件番号 平成23(行ツ)263
事件名 懲戒処分取消等請求事件
裁判年月日 平成24年01月16日
法廷名 最高裁判所第一小法廷
裁判種別 判決

1 公立の高等学校又は養護学校の教職員らが卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立して斉唱すること又は国歌のピアノ伴奏を行うことを命ずる旨の各校長の職務命令に従わなかったことを理由とする戒告処分が,裁量権の範囲を超え又はこれを濫用するものではないとして違法とはいえないとされた事例
2 公立養護学校の教職員が卒業式において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立して斉唱することを命ずる旨の校長の職務命令に従わなかったことを理由とする減給処分が,裁量権の範囲を超えるものとして違法とされた事例


裁判官宮川光治の反対意見は,次のとおりである。
多数意見は,本件職務命令は憲法19条(思想及び良心の自由)に違反せず,また,第1審原告X4を除くその余の第1審原告らに対し戒告処分をした都教委の判断は懲戒権者としての裁量権の範囲にあるとするが,私は,そのいずれについても同意できない。なお,第1審原告X4に対する減給処分を裁量権の範囲を超えるものとした結論には同意できるが,理由を異にする。

第1 本件職務命令の憲法適合性について
1 原審は,第1審原告らがそれぞれ所属校の各校長から受けた本件職務命令に従わなかったのは,「君が代」や「日の丸」が過去の我が国において果たした役割に関わる第1審原告らの歴史観ないし世界観及び教育上の信念に基づくものであるという事実を,適法に確定している。そのように真摯なものである場合は,その行為は第1審原告らの思想及び良心の核心の表出であるか少なくともこれと密接に関連しているとみることができる。したがって,その行為は第1審原告らの精神的自由に関わるものとして,憲法上保護されなければならない。第1審原告らとの関係では,本件職務命令はいわゆる厳格な基準による憲法審査の対象となり,その結果,憲法19条に違反する可能性がある。このことは,多数意見が引用する最高裁平成23年6月6日第一小法廷判決における私の反対意見で述べたとおりである。
なお,そこでは,国旗及び国歌に関する法律と学習指導要領が教職員に起立斉唱行為等を職務命令として強制することの根拠となるものではないこと,本件通達は式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図で発せられたものではなく,その意図は,前記歴史観等を有する教職員を念頭に置き,その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に,不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにあるとみることができ,職務命令はこうした本件通達に基づいている旨を指摘した。本件では,さらに多数意見が指摘する「地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性」について,私の意見を付加しておくこととする。

2 第1審原告らは,地方公務員ではあるが,教育公務員であり,一般行政とは異なり,教育の目標に照らし,特別の自由が保障されている。すなわち,教育は,その目的を実現するため,学問の自由を尊重しつつ,幅広い知識と教養を身に付けること,真理を求める態度を養うこと,個人の価値を尊重して,その能力を伸ばし,創造性を培い,自主及び自律の精神を養うこと等の目標を達成するよう行われるものであり(教育基本法2条),教育をつかさどる教員には,こうした目標を達成するために,教育の専門性を懸けた責任があるとともに,教育の自由が保障されているというべきである。もっとも,普通教育においては完全な教育の自由を認めることはできないが,公権力によって特別の意見のみを教授することを強制されることがあってはならないのであり,他方,教授の具体的内容及び方法についてある程度自由な裁量が認められることについては自明のことであると思われる(最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁参照)。上記のような目標を有する教育に携わる教員には,幅広い知識と教養,真理を求め,個人の価値を尊重する姿勢,創造性を希求する自律的精神の持ち主であること等が求められるのであり,上記のような教育の目標を考慮すると,教員における精神の自由は,取り分けて尊重されなければならないと考える。個々の教員は,教科教育として生徒に対し国旗及び国歌について教育するという場合,教師としての専門的裁量の下で職務を適正に遂行しなければならない。したがって,「日の丸」や「君が代」の歴史や過去に果たした役割について,自由な創意と工夫により教授することができるが,その内容はできるだけ中立的に行うべきである。そして,式典において,教育の一環として,国旗掲揚,国歌斉唱が準備され,遂行される場合に,これを妨害する行為を行うことは許されない。しかし,そこまでであって,それ以上に生徒に対し直接に教育するという場を離れた場面においては,自らの思想及び良心の核心に反する行為を求められることはないというべきである。音楽専科の教員についても,同様である。このように,私は,第1審原告らは,地方公務員であっても,教育をつかさどる教員であるからこそ,一般行政に携わる者とは異なって,自由が保障されなければならない側面があると考えるのである。

3 以上のとおり,第1審原告らの上告理由のうち本件職務命令が憲法19条違反をいう部分は理由がある。

第2 懲戒処分の裁量審査について
1 多数意見は,本件職務命令の違反を理由として,過去に同種の行為による懲戒処分等の処分歴のない第1審原告らに対してなされた戒告処分(以下「本件戒告処分」という。)は,懲戒権者としての裁量権の範囲を超え又はこれを濫用したものとはいえないという。そこで,私も,本件職務命令の憲法適合性に関する判断を留保し,また,本件戒告処分自体も憲法19条に違反する可能性があるが,その判断を留保し,その上で,本件の懲戒処分に係る裁量審査に関し,私の反対意見を述べる。以下,2において考慮すべき諸事情のうち第1審原告らの行為の原因,動機及び行為の態様と法益の侵害の程度について述べ,3において本件では戒告処分は実質的にみると重い不利益処分であることを指摘し,4において他の非違行為に対する処分及び他地域の処分例と比較すると不公正であることを述べる。

第1審原告らの不起立行為等は,「日の丸」や「君が代」は軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであり平和主義や国民主権とは相容れないと考える歴史観ないし世界観,及び人権の尊重や自主的に思考することの大切さを強調する教育実践を続けてきた教育者としての教育上の信念に起因するものであり,その動機は真摯であり,いわゆる非行・非違行為とは次元を異にする。また,他の職務命令違反と比較しても,違法性は顕著に希薄である。第1審原告らが抱いている歴史観等は,ひとり第1審原告ら独自のものではなく,我が国社会において,人々の間に一定の広がりを有し,共感が存在している。また,原審も指摘しているが,憲法学などの学説及び日本弁護士連合会等の法律家団体においては,式典において「君が代」を起立して斉唱すること及びピアノ伴奏をすることを職務命令により強制することは憲法19条等に違反するという見解が大多数を占めていると思われる。確かに,この点に関して最高裁は異なる判断を示したが,こうした議論状況は一朝には変化しないであろう。
第1審原告らの不起立行為等は消極的不作為にすぎないのであって,式典を妨害する等の積極的行為を含まず,したがって,式典の円滑な遂行に物理的支障をいささかも生じさせていない。法益の侵害はほとんどない。

3 第1審原告らは,最初の不起立行為等で本件戒告処分を受けたのであるが,その処分が第1審原告らに与える不利益については過小評価されるべきではないと思われる。確かに,戒告処分は法の定める懲戒処分の中では最も軽いが,処分を受けると,履歴に残り,多数意見も認めるとおり勤勉手当は当該支給期間(半年間)において10%の割合で減額され,昇給が少なくとも3か月延伸される可能性があり,その延伸によりひいては,退職金や年金支給額への影響もあり得る。そして,東京都の教職員は定年退職後に再雇用を希望するとほぼ例外なく再雇用されているが,戒告処分を受けるとその機会を事実上失い,合格通知を受けていた者も合格は取り消されるのが通例であることがうかがわれる。都教委は,不起立行為等をした教職員に対し,おおむね1回目は戒告処分,2回目は1か月間月額給与10分の1を減ずる減給処分,3回目は6か月間月額給与10分の1を減ずる減給処分,4回目は停職1か月の停職処分等という基準で懲戒処分を行っていることがうかがわれる。毎年度2回以上の卒業式や入学式等の式典のたびに懲戒処分が累積加重されるのであるから,短期間で反復継続的に不利益が拡大していくのである。戒告処分がひとたびなされると,こうした累積処分が機械的にスタートする。
以上のとおり,実質的にみると,本件では,戒告処分は,相当に重い不利益処分であるというべきである。

4 教職員の主な非行に対する標準的な処分量定(東京都教育長決定)に列挙されている非行の大半は,刑事罰の対象となる行為や性的非行であり,量定上それらに関しても戒告処分にとどまる例が少なくないと思われる。原審は,体罰,交通事故,セクハラ,会計事故等の服務事故について都教委の行った処分等の実績をみると,平成16年から18年度において,懲戒処分を受けた者が205人(うち戒告が74人)であるのに対し,文書訓告又は口頭注意といった事実上の措置を受けた者が397人,指導等を受けた者が279人となっており,服務事故(非違行為)と認められた者のうち懲戒処分を受けたのは4分の1にも満たないとし,これによれば,戒告処分であっても,一般的には,非違行為の中でもかなり情状の悪い場合にのみ行われるものということができるとしている。
さらに,不起立行為等に関する懲戒処分の状況を全国的にみると,懲戒処分まで行っている地域は少なく,例えば神奈川県や千葉県では,不起立行為等があっても,またそれが繰り返されていても,懲戒処分はされていないことがうかがわれる。このように比較すると,本件戒告処分は過剰に過ぎ,比例原則に反するというべきである。

5 以上を総合すると,多数意見がいう不起立行為等の性質,態様,影響を前提としても,不起立行為等という職務命令違反行為に対しては,口頭又は文書による注意や訓告により責任を問い戒めることが適切であり,これらにとどめることなくたとえ戒告処分であっても懲戒処分を科すことは,重きに過ぎ,社会通念上著しく妥当性を欠き,裁量権の範囲を逸脱し,又はこれを濫用するものであって,是認することはできない。この点に関する原審の判断は相当である。第1審原告X4については,多数意見は減給処分の取消請求を認容した原審の判断を是認することができるとしており,結論において同じとなるが,上記のとおり,私の意見は理由を異にする。なお,多数意見は,過去の処分歴に係る非違行為がその内容や頻度等において規律や秩序を害する程度の相応に大きいものであるなどの場合は,減給処分が裁量の範囲にあるものとされる可能性を容認していると思われる。そうであるとすると,前述のとおり式典は毎年度2回以上あり,不起立行為等を理由とする戒告処分は短期間に累積されていくのであるから,ある段階では減給処分がなされる可能性がある。多数意見は,起立斉唱行為に係る職務命令は思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることを認めていることに鑑みると,ただ単に不起立行為等が累積したにすぎない場合に減給処分が裁量の範囲にあるものとされる可能性を容認することは,相当でないと思われる。


IMG_0022.jpg

想定外と言霊

東日本大地震の際、菅前総理は、想定外の地震だったと言った。
そして、また、想定外の出来事として、原発の冷却装置が稼働せず、原子炉がメルトダウンした。

安全神話が崩壊したと言われたが、
原子炉は、100%安全でないといけなかったのだ。
99.9%の安全では許されなかったのだ。

それがために、思考停止してしまったのではないか。
それがために、99.9%の安全を99.99%に引き上げる努力をしなかったのではないか。

日本には、「縁起でもない」という言葉がある。

言葉として発したことが現実のものになるという考え方。
仲間たちで旅行に行くとき、誰かが「雨になるで~」とか言って、実際に雨が降ってしまうと、お前が縁起でもないこと言うからだと袋叩きにあってしまうが、その人が言ったから雨が降るのではなく、上昇気流で雲が発生し雨が降る。でも、言葉に力があると考えるのが、言霊。

近年の日本は、この言霊に支配されている。

原子炉は100%安全だと言わないと、100%安全ではないのだ。
そして、100%安全だと言えば、100%安全なのだ。

100%原子炉は安全なのだから、事故はもちろん想定外になる。

平和憲法を持っていれば、平和になると考え、
鉢呂大臣が死の町のようだと言えば、死の町のようになると考える。

そろそろ、言霊の呪縛から解き放たれないといけない。

言霊と想定外

栄枯盛衰

誕生から成長、成熟、死と人にライフサイクルがあるように
産業にも存在すると、高校時代学んだ。

どんな産業にも人生と同じように、誕生、成長期、成熟期、衰退期があると。

かつて、繊維産業や鉄鋼業は、栄華を極めた。しかし、今はその影もない。
デパートなどの流通業、店頭販売の旅行代理店なども厳しい局面になっていくだろう。
一方、宅配業やIT産業は、ますます成長していくのだろう。

もう一つ衰退の必然を感じる産業がある。
それは、マスメディア。

Sengoku38や東日本大震災のときのツィッターを見たとき、マスメディアは終わったと感じた。

個人個人が動画も撮影できるカメラ付き携帯を持ち、ネットに繋がっている時代、よく考えれば、既存の路線でマスメディアが進むのであれば、衰退は必然だろう。

産業界では、B to C(Business to Consumer)と呼ばれる企業と一般消費者の取り引きや、C to Cと呼ばれる一般消費者(Consumer)間で行われる取り引きが盛んだ。

ニュースの世界でも、C to C へシフトしてきていると考えればいい。

先週末、変態仲間が20人集まり、泊まりで海オフ会を開いた。そして、おみやげにふんどしを持って行こうと考えた。ネットで検索していると、なんとその製造所は、近所!通販で買うより直接買いにいったほうが速いと思い、連絡を取ると、気のいいおじさんが、「いつでも来てくださいね~」と言ってくれた。

行ってみると、そこは本当に質素な小さな工場。汗だくになりながら一人で作業中の手を止めて応対してくれた。話をしていると、「問屋を相手に商売しててもあきませんけど、ネットだと結構買ってくれる人がいて、なんとかやってます。」と汗を拭いながら話をしてくれた。

おじさんは、持っている縫製技術を生かしB to Cで活路を見いだした。


マスメディアもおじさんと同じように進む方向を変えないと衰退の道をたどるだろう。



一方、改めて、メディア。取り巻く環境は、衰退産業への足音が忍び寄っているにも関わらず、どんどん質が落ちていっている。

鉢呂大臣辞任の原因となった発言の前後の記者とのやりとりも報道せず、あの一文だけをあげへつらい、言論人であるも関わらず言霊にとらわれた報道しかしていない。

また、電車内で寝ていた女性の上半身を撮影して警察に逮捕された男性の事件を実名で報道したメディアがある。どのような理由で実名報道するのか。そもそも、逮捕自体が正当なのかが疑わしい。日々業務で撮影し、肖像権や迷惑防止条例違反にならない撮影の範囲について一番詳しいであろうマスメディア。この逮捕に問題意識を持たないというのはどういうことだろう。

少し前になるがネットを使ってカンニングをした学生を執拗に報道した。あまたいるカンニング実行者をメディアは同じように報道したのか?

マスメディアは、通信社になってしまったと誰かがテレビで言っていたが、まさにそのとおり。

小売業に衰退産業の足音が忍び寄るなか、実家の近くの八百屋のおじさんは、今も頑張っている。
それは、そのお店で売っているものは、必ず美味しいから。
美味しいものをプロとして選別しているから。


マスメディアもおじさんと同じように選別の目をつけないと衰退の道をころげ落ちるだろう。


海会

自然との対峙

東日本大震災、そして今回の紀伊半島の災害といい自然の恐ろしさを見せつけられた。

過去の津波被害を教訓に、高さ10メートル、総延長約2.5キロの長大な防潮堤が整備された岩手県宮古市田老地区。
過去の水害経験をふまえ、高さ9.4メートルの輪中堤が築かれた三重県紀宝町。
いずれも大きな被害となった。

人間が、過去の経験を踏まえ、想定しようが、自然はお構いなしに圧倒的な力でそれを超えてしまう。

力に力、高さに高さで立ち向かうのは限界ではないかと思う。
自然を克服できると考えるのは、人間の思い上がりなんだと思う。

小学生の教材用に司馬遼太郎氏が書いた遺言ともいえる作品「二十一世紀を生きる君たちへ」から引用したい。

 昔も今も、また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動植物、さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ生きているということである。
 自然こそ不変の価値なのである。なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。
 さて、自然という「不変のもの」を基準に置いて、人間のことを考えてみたい。
 人間は───繰り返すようだが───自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは、少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。
 この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
 ───人間こそ、いちばんえらい存在だ。
という、思い上がった考えが頭をもたげた。20世紀という現代は、ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といってもいい。

 同時に、人間は決しておろかではない。思いあがるということとはおよそ逆のことも、あわせ考えた。つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考えである。
 このことは、古代の賢者も考えたし、また19世紀の医学もそのように考えた。ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。
 20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、古代や中世に神をおそれたように、再び自然をおそれるようになった。
 おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、21世紀に近づくにつれて、終わっていくにちがいない。

「人間は自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。」
と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、そのようにへりくだって考えていた。
 この考えは、近代に入ってゆらいだとはいえ、右に述べたように近ごろ再び、人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。
 この自然へのすなおな態度こそ、21世紀への希望であり、君たちへの期待でもある。そういうすなおさを君たちが持ち、その気分をひろめてほしいのである。
 そうなれば、21世紀の人間はよりいっそう自然を尊敬することになるだろう。そして、自然の一部である人間どうしについても、前世紀にもまして尊敬しあうようになるのにちがいない。
そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。


ここにもう一つ興味深い記事がある。
東日本大震災の津波が江戸時代の街道と宿場町の手前で止まっていたというのだ。街道は過去の津波の経験をもとに浸水域を避けて整備された可能性があるという見解があり、解説の大学教授は、「先人は災害の歴史に極めて謙虚だった」と語っている。
http://ruri.crara.cc/archives/6344/

築くべきは、高い堤防ではなく、ひとりひとりの心の堤防なのではないかと思う。

防潮門

自助共助公助

紀伊半島で多くの方が亡くなり行方不明という報に接し言葉もありません。
今も多くの村が孤立状態とのこと。早期の復旧を願ってやみません。

そんななか、ニュースでインタビューに応える人の言葉を聞いておやと思った。

避難勧告が出ていれば避難したんだけどという言葉。インタビューアーに誘導されたのかもしれないが、ひどく他力本願な感じがした。

なにか自分の命を行政に預けてしまっているかのように。

十津川は、江戸時代罪人が流れきても追っ手が追えないような険しい山、そして、耕作に適した平地のあまりの少なさゆえ年貢を免除されていた土地柄。

東京や大阪の年間降水量が数日間のうちに降ったというこの状況下で、村内の指定された避難場所であっても確実に安全とは言えない。そして、そこへ向かう道も、安全とは言えない。そんなとき、避難勧告を出すのを慎重になるのは、あり得ることのように思う。住民の安全を考えて。

どうしてもマスコミは、水戸黄門のような、行政=悪、市民=善良というわかりやすい構造に仕立てたがる。

佐用町の洪水被害の際の避難勧告の遅れと同じ視点で見てはいけないと思う。
川の氾濫と土砂災害の違い、村内に完全に安全な場所が確保できるか否かという点で大きく違う。

避難勧告といえども、強制力はない。
避難準備情報→避難勧告→避難指示→退去命令の順だが、退去命令しか強制力がない。これは、もともと、最終的な判断は自分自身がするものという思想が根底にあるのだと思う。

一人の人がおかれた状況と、ほかの人がおかれた状況は違う。
感じることができない放射能汚染と違い、伝えられる情報とともに五感を総動員して自分自身で判断するほかないと思う。

自助共助公助という言葉がある。
これは、まずは自分の身は自分で守る、そして、それができないとき、隣近所同士で助け合う、そして、それも無理なときに行政が救助するという考え方。

以前、どこかの首長さんがテレビでこんな話をされてた。
役所に「公園の木が垂れ下がってきていて、子どもたちの目に刺さりかねない。」との電話連絡があり、首長さんもその現場に向かった。
現場に連絡した男性がいて、首長は、その男性に問いかけた。
首長「あなたのおうちにハサミはありますか?」
男性「はい、あります」
首長「では、どうして、あなたは、子ども達の目に刺さるかもしれないと思ったら、電話する前に自分で切らなかったんですか?」
男性「・・・・・」


翻って、十津川。
日本一の面積を誇る村。
日本一雨が降る大台ヶ原を背後に抱く土地。
そして、かつて、大水害にみまわれ集団移住という決断をした過酷な歴史をもつ村。
今も北海道に移住者が住んだ新十津川町がある。

われ官を恃まず ではないが、自助意識の極めて高い土地柄。
日本一の鉄線吊り橋として有名な谷瀬のつり橋も、集落の人が今の価値で1戸あたり600万~900万円のお金を出し合って建設したもの。

そして、独立独歩の気概の高い村。
幕末期、十津川郷士として御所の護衛を担い、坂本龍馬が暗殺されたときも、十津川郷士を名乗ったので信用して戸を開けたと言われている。

およそ先の役所に電話した公園の男性とは対極の意識をもつ人々のはず。
それだけに、奇異に感じた。
もしかしたら、十津川の人でなかったかもしれない。

一日も早い救助と復旧を願う。

祈り

平等

人は等しいという人権啓発ポスターを見かける。

しかし、これは間違いだと思う。
人は等しくて等しくない
とすべきだろう。

人間はひとりの人間として平等に尊重されなければならないというのが、そのポスターの意図するところだと思うが、どうも平等という言葉だけがひとり歩きしてしまった気がする。

個性が問われる時代、人は等しいというコピーは一面だけしか捉えていないと思う。

中学校まで公立学校に通ったがそこでは平等というのが徹底的にすりこまれた気がする。先生方によってはき違えられた平等主義を。

徒競走で順位をつけず、ゴール直前で手をつないでゴールするということを大人になって聞いたことがあった。信じられなかった。

そしたら、テストもみんな同じ点数をつけるのか?勉強はできないけど、足は速い子は立つ瀬がない。

これも大人になって、ジャージ上下の上に学生服を着た集団を見かけた。知り合いの先生になぜあんなおかしい服装をするのかを聞いたとき、返ってきた言葉に驚いた。

寒いけど上に着る服がいいのを買える子も、そうじゃない子もいるからだと。

あきれた。

生まれや育ちも違う子どもたちが、その違いで差別してはいけないというのを教えるべきなのに、表面上同じにすればいいという考えなのだ。

教育というのは、社会へ出るための助走のはず。
社会には厳然とした格差が待ち構えている。
その過酷な社会で生き抜く知恵と知識、生きる力を教え、それぞれの子どもたちに自分の羅針盤をもたせるのが教育だと思っている。

それなのに、真空無菌状態とも言える環境に子どもたちをおくというのは、教育を放棄してるとしか思えない。

モンスターペアレンツの存在もあり、全てを学校の先生方の責任だというつもりはない。
しかし、モンスターペアレンツと同じ立場に立って声高に主張していた先生がいたのも事実。

結果の平等と機会の平等は大きく違うということを先生方に教育しないといけない。


学校

法とマナーと先生たち

ツィッターで、国歌斉唱中の起立を強制する条例はおかしいというつぶやきがあった。

確かに条例で規定するようなものではないと思う。マナーの範疇に入る話だと思う。

高校時代、当時の政治経済の先生に、
社会規範には、法律や条例などの法以外にもマナーや道徳、倫理も含まれる。
そして、これらは、法よりも上位の社会規範である。
と教わったが、聞いて目から鱗だった。

誰かが言ったが、法律には殺人をするなとは書いていない。殺人をしたらこうなるとしか書いていない。人を殺してはいけないというのは、倫理や道徳による規範。

法律で全ての人の行為に制限を加えるようなことをしだしたら、それこそ大変な作業になる。様々なケースを想定し、法律を作る必要がある。まるでアメリカの契約書みたいなことになる。

倫理や道徳、マナーは法では規定することができない根元的な部分、法で書ききれない部分をカバーするという意味で法よりも上位の社会規範なんだろう。

ある意味、倫理や道徳、マナーは常識とも言える。

この部分に触れることを大人に注意するのは勇気がいること。

私は成人してから、上司に「くちゃくちゃ音を立てて食べるな」と注意されたことがある。口を閉じて食べるという躾を受けていなかったのだ。でも、注意してもらったことにとても感謝している。注意してくれた人はきっと勇気がいったと思う。

電車で投げ出した脚や音漏れしたヘッドフォンステレオに注意をしたら、「どの法律に書いてあるねん!」とつっかかられる。

マナーに関わる話は始末にこまる問題だと思う。

最近、電車では、マナーに関わるアナウンスやポスターを見かける。

デイパックは手で持ってとか、どの座り方が正しいのか?とかいろんなところで見聞きする。

橋下知事の条例制定意図は、本来はマナーの範疇のものだけど、電車でのポスターやアナウンスと同じように「言わないとわかんないでしょ」というのがあるのではないかと思う。

いつのオリンピックか忘れたが、里谷多英選手が表彰台にあがり、銅メダルまでの選手の国旗が掲揚されたとき、脱帽せずに非難を受けた。

彼女は、私が口を閉じて食べるという躾を受けなかったのと同じように、国旗を掲揚するときには脱帽しないといけないというのを教えられてなかったのだと思う。

グローバリゼーションが叫ばれ、修学旅行で海外まで行く時代。
グローバルスタンダードともいえる、国歌国旗への敬意は、小学校で英語を教えるようにする以前にしっかりと教える必要があるはず。

英語を話せるのが国際人ではなく、自分の育った町や国や文化を愛せる人でないと世界ではしっかりと相手してもらえないということを理解すべきだと思う。

そして、橋下知事のもう一つの条例制定意図には、卒業式などでの国歌斉唱時の教員の不起立の問題があるようだ。

広島県立世羅高校で国旗掲揚国歌斉唱に反対した教員たちに悩まされ、当時の校長先生が自殺した事件がきっかけとなって、国旗国歌法が制定されたが、それと同趣旨だと思う。

公立学校の先生方は、もういい加減自分のイデオロギーを学校内で主張するのはやめていただきたい。

社会システムの中で正当な手続きを経て決定されたことに従わない教員に、将来社会のルールの中で生きていく子ども達を教える資格はない。

私は、昔、学校で、石川さんは無実ですという感想文をクラス全員半強制的に書かされことがあった。
こども心にとても違和感を覚えた。

社会システムの中で正統性を与えられた裁判所の判決を否定することを教える教員に、三審制や三権分立を教える資格はない。

日の丸
プロフィール

美空

Author:美空
エロで変態だけど幕末好き。写真にハマり、アートや政治にも関心がある硬軟混ざった48歳です。
普段は、パートナーのドレミと関西を中心に活動しています。

堅い話もありますが、基本エロブログですので、18歳未満の方の閲覧はご遠慮ください。

たまにツィートしています。



ドレミもツィート始めました

最新記事
最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
ブロとも一覧

未知への軌跡 【混浴・滝巡り・露出そして・・・】

ぽちゃだけどHな事が好き
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。